沖縄市山内三丁目にある、山内自治会のバス停留所です。
こちらは沖縄市のコミュニテイーバスが停まります。 ご利用の際は変更等があるので、バス会社に確認してください。
こちらが山内自治会館。
山ももの歌碑。
山ものの歌が彫られています。
楊梅(山もも)は山内の名産物であった。
旧暦三月は「ムムサンクァチ」といって山ももの最盛期で山内住民の生活はうるおった。
山ももの季節になると、もも山は山ももを収穫する村人たちや、ムムウイアン小たちの談笑、そして、もも山見物をする観光客で賑わいを呈した。
収穫した山ももは、大山(宜野湾村)あたりのムチャー(仲買人)が買い取って那覇へ運んだ。 ムチャーたちは、首里や那覇の町々をまわってムムコーインソーレータイ(山ももを買って下さい)と、呼びかけて売りさばいた。
今に語りつがれるムムウイアングワーの風物詩である。
ここに、山ももの木を山内の記念木として、歌碑を建立し、この「金のなる木」の話題を後世に伝承することにしました。
説明文より
「金のなる木」というストレートな表現が好きです。
自治会館の向かいに山内大明神があります。
お宮
お宮には、山内の始祖といわれている山内大明神(山内昌信:第二尚氏王朝の第3代国王尚真~第4代国王尚清時代の三司官(首里王府の行政の最高責任者))が祀られている。
近くの説明文より
山内昌信(やまうちしょうしん)
生没年未詳。 尚真~尚清王代の三司官。 首里楊(よう)氏の祖。 童名は太郎金(たるがに)。 唐名は楊大鶴(ようたいかく)。 父母は不詳だが、尚円と北谷金万の祝女(ノロ)真加戸金(まかとがに)の子とも伝わる。
越来間切山内の出で、尚真王代に出仕して越来間切の地頭となった。 当時、仁厚の人であれば必ず神が現れて御唄(おもろ)をもってたたえたといい、昌信も神から御唄で〈樽(たるー)三司官〉と称されたという。
三司官への任職は神の御唄を唯一の証として後代認定されたと考えられるが、三司官呼称の使用開始期の問題を含め、確たる記録を持たない、なかば伝説的な人物である。
沖縄大百科事典 沖縄タイムス社より
三司官がはっきり分かっているのは尚真王代の毛文英から。 尚巴志の時代にもいたかもしれないが、よく分からないそうです。
毛文英(沢岻盛里(たくしせいり))は首里城瑞泉門の横にある龍樋に、彼が中国から持ち帰った吐水石竜頭を取り付けた人。
火の神
イリーヌクムイの横にあったが、個人有地のためお宮の左手に移設された。 ウスデークの時に拝む。
近くの案内板より
ウタキ
お宮の右手にあり、中山への結びのウタキで、シリンンカーヌカーとのクサイ(結び)といわえる。
近くの案内板より
こちらは慰霊碑。
そして越来節の碑。
越来節
舞踊劇。 もともと農村でうたわれていたものを、明治の初期に芝居に取り入れたと伝えられる。 ~略~
沖縄本島中部の越来間切の村役人である文子(ティクグ)富里が村の美童を連れて隣村に行き、夜明けまで楽しく遊んで帰るという内容。
沖縄大百科事典 沖縄タイムス社より
文子(ティクグ)は間切役人中の下役のこと。
ヤガマヤー(娘宿)と呼ばれる年頃の娘たちが集まる場所に若い初級役人・富里が訪ねてきて、毛遊び(モウアシビー)という名の野外パーティーへと誘い出して隣村まで行って、朝までエンジョイしましたという内容でとらえてよいのかな?
二代目の山内親方昌親は地頭職を任じられ、三代目(分家?)は「越来節」に登場するテクグ(書記)冨里といわれる。
沖縄拝所巡り300 著・比嘉朝進より
越来節の富里君は山内昌信の孫のようです。
マーニヌネカタ
山内昌信が生まれてまもなく捨てられたと言われる場所。 お宮の後方にあり、ウスデーくの時に女性のみで拝む。
近くの案内板より
なぜ捨てたのかは不明(尚円王の落胤だから?)。
自分が捨てられた場所に、自分のお宮を建てられるのはどんな気分なんだろう。
次のバス停留所は…
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山内三丁目
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