那覇市久米のバス停留所です。
こちらは首里牧志線(1番)が停まります。 特に注意書きが無ければ掲載時の情報なので、予めご了承ください。
那覇市久米の県道47号線沿いにバス停留所(地図)はあります。
「久米」と名がつく地名は全国各地にあり、呼び方も「くめ」以外に「くまい」や「くんめ」と様々です。
こちらの方言名は「くにんだ」。
久米
古くは浮島だった那覇のほぼ中央部に当たった。 この地は、漫湖から湾入する小港と呼ばれる内兼久近辺に居を定めた中国福建省から渡来した人々によって始まったといわれる。 この集落をクニンダ(久米村)と称する紀時期は未詳だが、1450年ごろの琉球国之図に九面里と記されており(海東諸国紀)、その淵源は古いと思われる。
久米村
はじめ島尻方真和志間切那覇町のうちであったが、のち総理唐栄司が置かれ独立。 「中山伝信録」では、久米村内が東門・西門・北門・南門(大門とも)の4か村に分けられている。 1667年、村の東に普門寺村ができ、1735年、同村は久茂地村改称し、久米村に属した。
(角川日本地名大辞典より抜粋)
久米大通り
久米村の南口である「大門(ウフジョー)」と北口の「西武門(ニシンジョー)」の間を南北に貫く大路。 かつては久米村大道(クニンダウフミチ)といった。 久米村の風水では、大門に向かい合う「仲島の大石」を龍珠、大門を龍の首(頭)、大門付近の二つの石を眼、二本の木を角、西武門を龍の尾とし、この通りを龍の背(体)と位置付けた。
大門の前を「大門前(ウフジョーヌメー)」といい、孔子廟から大門前、かつての那覇市役所にかけての通りを「大門前通り」といい、デパートや商店が建ち並ぶ那覇のメインストリートであった。 また、久米大通りには、1914年から1933年の間、那覇と首里を結ぶ電車も通っていた。
(近くの案内板より)
16歳ごろの蔡温が首里の小橋川仁屋と口論となり、学問を怠けているのは士ではないと嘲笑されたことが学問のきっかけになったと著書に書かれています。 その口論の現場がここです。(角川日本地名大辞典より意訳)
こちらに路面電車(軽便鉄道ではない)の「大門前」停留所がありました。 久米大通りに沿って敷かれた線路は西武門の交差点まで続き、そこから若狭方面へと延びていきます。 その後、路面電車は泊高橋や崇元寺、観音堂の前を通って首里(現・首里高校前)の停留所へと向かいます。
那覇市立天妃小学校です。
地名ではなく女神様の名を冠した小学校です。 元々ここは天妃町だったので、そこから付いたと思われます。
こちらは天妃宮。
上天妃宮(かみてんぴぐう)跡の石門
10世紀後半、中国福建省甫田県という所に媽祖とあがめられた女性がいました。 その死後、いつしか公開の安全を守ってくれる神として、中国南部の沿岸地方で広く信じられるようになり、明の皇帝は媽祖に「天妃(てんぴ)」という称号を贈ったのでした。 中国と行き来する沖縄の船も天妃をまつり、出発する時や着いた時には、その地の天妃廟に詣でました。 沖縄には、14世紀の終わりごろにやってきたという閩人(びんじん)三十六姓(中国〈福建省〉の人々)とともに、天妃をまつる信仰も伝わったようです。
那覇には、上天妃宮、下天妃宮(しもてんぴぐう)の二つがありましたが、現在残っているのは上天妃宮の石門だけです。 上天妃宮がつくられたのは、そこにかけられていた鐘に記された年号から、15世紀半ばごろと考えられます。 石門に続く石垣は、布積みからあいかた積みが用いられるようになるころのものと考えれます。
(案内板より)
八重瀬町玻名城には遭難した父親を娘が媽祖となって救った話が伝わっています。
ここ天妃宮の前にあった店で饅頭が売られていたそうです。 通称「天妃の前饅頭(テンピヌメーマンジュウ)」。 那覇の三大饅頭の一つです。
今はその店はありませんが、那覇市泉崎の方で売っているお店があるようです。
次のバス停留所は…
久茂地
西武門
「西武門」もお願いします。
返信削除コメントありがとうございます。
削除県道43号線と県道47号線で分けて掲載予定です。 少しお待ちください。
どう致しまして。
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