与那原町板良敷にある「当添」のバス停留所です。
糸満新里線(36番)、那覇新開線(37番)、志喜屋線(38番)、南城線(39番)、南城~結の街線(336番)、斎場御嶽線(338番)、城間線(191番・391番) が停まります。 ご利用の際は変更などがあるので、バス運行会社に確認してください。
県道331号線を与那原町から南城市向けに進むとバス停留所(地図)はあります。
実証実験中の町内バスも停まります。 町内バスは利用条件があるので、ホームページにてご確認をお願いします。
町内バス実証実験事業(与那原町ホームページ)
当添
与那原町東部の行政区。 半農半漁。 字板良敷の一部で、その屋取集落であったが、1918年に行政区として分離。 現在の地名は唐船(トーシン)がなまったもの。
(沖縄大百科事典 沖縄タイムス社より)
昔、この海岸に唐船が難破漂着し、当添岩に祭った。 唐船から転訛して、当添の地名になった。
(沖縄の地名の由来 崎原恒新・著より)
狭い路地に入ったところにある「上ヌ井」(地図)。
上ヌ井
水質が良く、水量が豊富であるので、水道が普及する前は、簡易水道などに使用されていた。戦前は正月の若水、結婚、出産、旅立、出漁の時に拝んでいたが、現在は正月元旦の年頭の御願(うがん)ばかりである。
(与那原大綱曳資料館ホームページより)
グーグルマップには路地が表示されていないので、個人の敷地内にあるのかと思っていました。
当添公民館”とうしむらやー”。
建物裏の公園側に「当添公園」のバス停留所あり。
こちらが久茂久岩(くむくじー)。
久茂久岩
第二尚氏時代、琉球との貿易に従事する中国船が当添の沖で難破し、十数名の死者を出したので部落の人達が、唐船小堀に漂着したこれらの遺体を収容し、海岸近くの久茂久岩くむくじーの上に丁重に葬って霊を慰めたといわれる。 後に、海神たる龍宮の神(ニライカナイの神)をも招請し、併せて祭った。 その後、久茂久岩は部落の鎮めとして尊崇する所となり、旧正の初拝み、初起こし、ハーリーなど海上安全、豊漁を祈願する所となった。また古老のいい伝えによると、壺に水が満つと豊作で、台風もなくユガフーになるといい、逆に干上がってしまうと餓死、飢饉が訪れるということであった。 戦前は聖地としてあがめられ汚物を持って付近を通ることも禁じられたということである。久茂久岩の由来には更に異説があり、難破した唐船の乗組員の遺体が、長い間自然のままにさらされていたが、大里間切西原村の稲福某という人が、田畠を耕すため当添の地におりたところ、その人骨の惨状に驚き、遺骨を取り集めて久茂久岩に合葬した。 今の部落はその後、数十年たってできたということである。
(与那原大綱曳資料館ホームページより)
近くにある石碑に「当添邦元邦代の神、嶽山元世通の神を合祀」という記載があったので、その二柱を祀ってあると思われます。
次のバス停留所は…
馬天入口 (BATEN IRIGUCHI)
南板良敷
「南板良敷」もお願いします。
返信削除コメントありがとうございます。
削除なるべく早く掲載できるように頑張ります(あまり要望にお応えできなくて申し訳ございません)。
どう致しまして。
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