2020年8月20日木曜日

我部 (GABU)

"GABU" Bus Stop

 名護市字我部のバス停留所(地図)です。

 こちらは屋我地線(72番)が停まります。 変更等があるのでご利用の際はバス会社に確認してください。


GABU 1

GABU 2

 屋我地島の南側を通る県道110号線にバス停留所はあります。



GABU 3

GABU 4

GABU community center 1

GABU community center 2

 公民館の横にポツンと我部塩田遺跡の説明文があります。

 屋我地島では明治13年頃に塩田が開墾されて、昭和36年頃まで製塩業が行われており、特に我部は前垣を中心に多くの製塩業者が塩田を営んでいました。 現在も沿岸のあちこちに塩田の区画である石積みや塩づくりの施設で煎ごう炉の煙突、ろ過装置(クミ)などが残っています。
説明文より

 地図を見ると我部塩田遺跡や我部の塩田跡は、次の「アワヤ原」のバス停留所からが近いようです。



GABU 5

 「琉球国由来記」よると、琉球の塩作りは我部村に始まるとされ、俗に「我部ノ塩屋」といい、海水を直接煮て塩とした。 当時の古老の話では、かつて日本人が琉球に来て教えたといい、以後周辺の薪木のある村はみな海水を煮て塩を作ったが、近頃は我部村の人々が衰微し塩を作ることができず、王府に願い出て塩作りを止めたという。
沖縄県の地名 平凡社より

 我部は1691年に我部村に松田村がくっついて、一つになったようです。 もともと松田村の住人は蔡温によって今帰仁天底付近から移住させられたようで、理由は村人は山林に集まって住んで焼畑をしているから。 袖山制度のために犠牲となったようです。

 琉球王府の山林資源確保のため、山を焼いて農業する民は山林の保護・育成の障害とされたのかもしれません。

 袖山とは
 王府時代の山林の一形態。 地元の間切り・島・村が王府の監督のもとに保護・育成し、王府の需要を満たすと同時に、住人は建築・薪炭その他必要な木材を許可を受けて伐採することができた入会林野である
沖縄大百科事典より


GABU 6



次のバス停留所は…

饒平名 (YOHENA)
YOHENA



アワヤ原 (AWAYABARU)
AWAYABARU

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琉大北口 (RYUDAI-KITAGUCHI)

   琉球大学の敷地内にある「琉大北口」のバス停留所です。  こちらは中城村の護佐丸バスの伊集回り線、久場回り線、久場琉大線が停まります。 掲載している情報は公開日時点のものなので、バスなどをご利用される際は関係各所に確認してください。