首里赤田町の赤田(地図)です。 正確に書けば、ここは鳥堀町になります。
ここには、新川首里駅線(16番)、首里駅線(18番)、首里駅循環線(19番)、城間線(191番)が停車します。
赤田のバス停留所は有名な交差点、大角座(うふかくざ)の近くに在ります。
かつて赤田町は首里王府から泡盛の製造を許可された酒造所が集まっていた場所です。
追記:2021年4月より首里駅循環線(19番)が増えました。
左の道を抜けて行くと首里城公園です。
四方八方から道が繋がっているので、渋滞もスゴイです。
ここの近くに住む同僚に聞いた話では、クルマの脇を通り抜けるバイクと道路に出ようとするクルマの接触事故が多く、そのためよく検問をしているそうです。
右手の下り坂は、南風原大名まで抜け道です。
赤田出身の人には、渡嘉敷ペークーがいます。
渡嘉敷ペークーは機知と諧謔(かいぎゃく)にとみ無欲な才人であったと名高い。 自尊心と野心の強い傾向があった当時の首里人の中では、とりわけ異質であった。
ペークーは1742年に首里の赤田で渡嘉敷親雲上兼倫(とかしきぺーちんけんりん)の三男として生まれている。 彼の父親は御右筆主取(ごゆうひつしゅどい(文書係))と謡取調役(うたいとりしらべやく)であった。 ペークーも花当職(はなあたいしょく(花畑管理職))を経て右筆になった。
私財をふとらすようなことをしないばかりか、役職で儲けた金をたびたび庶民に分け与えていたから、貧乏な暮らしをしていたといわれる。
ある日、ペークーは場内で前かがみになって哀れっぽく歩いていた。 妻から明日の米代がないといわれて、彼は一案をひねりだしたのだった。 王はそんな彼に米を一俵持たせることにした。 ところがペークーは馬の鞍の片方に米俵を積んで、均衡のとれない馬が横転するのを王に見せて、もう一俵をせしめたという。
またある日、競馬にペークーも出場したが、名馬をもたない彼が遅いレースを展開しつつ優勝したのだった。 それにはわけがあった。 普通競馬には雄馬を出場させるのが常識だが、彼は発情期の雌馬を利用したため、雄馬たちは雌馬の強烈な匂いのあとを追ったというのである。
日本の伝説2「沖縄の伝説」 角川書店より
長文ですが、面白かったので載せました。
「諧謔(かいぎゃく)」は洒落やユーモアのこと。
小学生の頃からうふかくざ は うーかくじゃーと呼んでました。
返信削除僕の親なんかは「うふかくじゃー」と言っていましたよ。
削除このバス停は91番を通りませんよ。
返信削除コメントありがとうございます。
削除早速修正します。