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豊見城市与根のバス停留所です。
こちらは与根線(45番)が停まります。 載せている情報が変更になっている場合がありますので、ご了承のほどをよろしくお願いします。
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豊見城市与根のバス停留所(地図)です。
「与根」のバス停留所は三か所あります。 バスの路線が「友愛医療センター」を通るかで、バスが停まる位置が違うようなのでご利用の際は気を付けてください。
こちらは次の「与根製塩所前」に向かうバスが停まるようです。
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与根は方言では「ユニ」と言います。
与根
近隣集落や首里、那覇からの移住者によって形成された屋取(やーどい)集落で、地名の由来も人々が寄り集まって出来たムラという意味の寄り部落(ユイブラク)、あるいは寄り国(ユイグニ)が与根(ユニ)になったと地元ではいわれている。
このほか、宮城真治は『沖縄地名考』のなかで、ユナ(与那)、ユニ(与根)という地名は、ユリ(寄り)が変化したものであり「風波のために寄り上げた砂地を意味する」と考察している。 また、『混効験集』には、「よね、米の事也、又砂をもよねという事有(後略)」とあることからも砂地に由来する地名と思われる(大日本地名辞書 続篇 第二琉球』)。
(『豊見城市史 第二巻 民俗編』より)
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こちらには次の「与根公民館入口」が停まるようです。
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左側に写っているバス停留所に「友愛医療センター」へ行くバスが停まるようです。
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奥に写っている建物は友愛医療センター。
建物が建つ前は野球場や運動場、そしてゴルフ場もありました。 さらに時代をさかのぼると、この一帯は塩をつくるための塩田でした。
塩づくりと塩田跡[与根]字与根の塩田は、干潟を利用した入浜式塩田で、かつては泊潟原(那覇市)、泡瀬(沖縄市)などと並ぶ県内でも主要な製塩地となっており、そこで生産される塩は「与根マース」の名で知られた。その起源は、明治30年代中ごろ、おもに那覇・泊からの移住者らにより始められたものである。
当時の塩づくりは、塩田に砂をまき、これに海水を散布して天日に干し、砂に塩分を付着させる。この砂を集めて「クミ」と呼ばれる「ろ過槽」に入れ、さらに海水をかけてろ過すると、砂に付着した塩分が溶け出し濃縮された塩水が得られ、これを煮詰めて塩にした。
塩田は満潮になると水没して作業を中断しなければならなかったため、昭和4年(1929)には塩田の周りに防潮堤が建設されるなど周辺整備も進められ、終戦までに約3万8千坪の塩田が開発されている。
沖縄戦によって、防潮堤が破壊され、塩田内の砂利採取により使用不能となった箇所もあったが、被害の少なかった一部の塩田が再開され、戦後しばらくまで昔ながらの塩づくりが行われた。海岸沿いの集落に立ち並ぶマースヤーの煙突から塩焚きの煙がたなびく光景は与根の風物詩であった。しかし昭和30年前後から、外国産の原料塩を海水に溶かし焚き直してつくられる「再製塩」が出回ったため、従来の塩づくりは次第に行われなくなり、それに伴い塩田も姿を消していった。その後、塩田跡地一帯は埋め立てられ現在は「ゴルフ場」となっている。いまでも、再製塩による製塩業が特別の許可を得て続けられ、地元の特産品となっている。
(豊見城市ホームページより)
ここのゴルフ場を一回だけ利用したことがあります。 コースの特徴より「松の木」と「松ぼっくり」のイメージしか思い出せないので、記憶力の低下を自覚しております(もしかしたら松も勘違いかもしれません)。
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次のバス停留所は…
与根製塩所前
与根公民館入口
友愛医療センター
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