西原町上原のバス停留所です。
こちらは、琉大線(97番)、普天間空港線(125番)が停まります。 ご利用の際は変更などがあるので、バス運行会社のホームページを確認してください。
県道29号・那覇北中城線沿いにバス停留所(地図)はあります。
県道34号線と交わる上原交差点の近くになります。
上原
第2次大戦後~現在の字名。 はじめ西原村、昭和54年からは西原町の字。 方言名ではウィーバルという。 「うえばる」ともいう。 もとは西原町棚原の一部。 地名は、下手の村から見て台地上の土地を意味する。
伝承によれば、18世紀の初期、首里の嘉味田殿内から屋良家が移り住んだのが始まりであるが、上原の住民は、明治12年の廃藩置県後に首里から移り住んだのが大部分である。
一帯は袖山と呼ばれる官有林地で、首里士族が屋取を形成していた頃は、地元の農民を使役して茶の栽培を行った。
(『角川日本地名大辞典』より抜粋)
「上原」の地名は各地にあり、大宜味村や竹富町、与那国町にもあります。 大宜味村と竹富町は方言名は「ウイバル」、与那国町は「イーバル」といいます。 ここの方言名「ウィーバル」は那覇市の宇栄原と同じ呼び方です。
嘉味田殿内は尚真王四男・朝福(ちょうふく)を祖とする向氏(しょううじ)で、現在の那覇市真嘉比にありました。
ここからは中城村になります。
中城ハンタ道(地図)の入口。
ハンタ道とは?
「中城ハンタ道」は。琉球王国時代前半の首里城から勝連グスクまでを結ぶ幹線道の中城村内を通る全長約6.2kmの歴史の道です。
沖縄の言葉でハンタとは崖のことで、中城村内では山の尾根や崖沿いに道が通っていることからハンタ道と呼ばれています。
12~14世紀頃までは集落やグスク間を繋ぐ道として利用され、15世紀に琉球王国を誕生させた尚巴志により王府と地方の情報伝達のために整備されました。
ハンタ道の起伏に富んだ地形や、東側に広がる村落風景と中城湾が重なる美しい風景は散策する人を楽しませてくれます。
残念ながら道はここで途切れていますが、南にある幸地グスク付近で道を見ることができます。 ちなみに「歴史の道百選」で、国指定史跡にもなっています。
別名は中頭方東海道(なかがみほうとうかいどう)。 あのペリー艦隊の探検隊も通りました(たぶん大城賢雄と百十踏揚も)。
中城ハンタ道(文化遺産オンライン)
次のバス停留所は…
琉大附属学校前
会営薬局前 (KAIEI YAKKYOKU-MAE)
「琉大付属学校前」もお願いします。
返信削除(誤)「琉大付属学校前」
返信削除(正)「琉大附属学校前」
すみませんでした。
コメントありがとうございます。
削除記事内の誤字も修正しました。 間違いの指摘、助かります。 何度か読み返しているのですが、気づきませんでした。
こちらこそありがとうございます。
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