2023年11月2日木曜日

奥武橋 (OUBASHI)

"OUBASHI" Bus stop

 名護市真喜屋にある「奥武橋」のバス停留所です。

 こちらは屋我地線(72番)が停まります。 ご利用の際は変更などがあるので、バス会社に確認してください。



OUBASHI 1

OUBASHI 2

 名護市の国道58号線・伊佐川バイパスの真喜屋交差点を屋我地島へと向かうと、「奥武橋」のバス停留所(地図)が見えてきます。



OUBASHI 4

OUBASHI 5

 こちらは真喜屋運動広場。



OUBASHI 6

 真喜屋運動公園内の一角に建てられた「津波被災地跡」の碑。

 1960年5月午前4時11分ごろ南米チリ中部の近海でマグニチュード8.5の地震が起き大津波が発生した。津波は時速約720Km(秒速約200m)の速さで太平洋を横断翌24日未明には日本海沿岸を襲い、死者139人を出した。
 沖縄では、同日午前5時30分ごろからおもに久志村・羽地村(元名護市)石川市等で数回にわたって来襲、甚大な災害を被った。
 当地には、真喜屋小学校があったが津波によって全校舎、校地が破壊され校地移転を余儀なくされた。地域では死者三人、学校裏の護岸及び屋我地大橋(146m)、奥武橋が全壊した。
 この被災を教訓として地震・津波の防災のために生かしたい。
(石碑より 数字などを変更しています)


 被害があった同地の真喜屋小学校は、ここ黒崎原からハジャナ森(現敷地)へ同年7月に移転しています。

 ちなみに碑文にはマグニチュード8.5とありますが、内閣府の防災情報にはマグニチュード9.5と記載されています。 同日4時に発生して5時に到達しているのは、日付変更線をまたいでいるためで、実際に津波は発生から23時間後に到達しています。



OUBASHI 7

 この先に橋があり、渡ると奥武島。



OUBASHI 8

OUBASHI 9

 羽地奥武橋。

 なんで自分がここを撮影しているのか不明(橋の上の写真はない)。

 バス停留所の名称では「羽地」が省略されています(奥武橋は南城市の奥武島に架かっている)。



OUBASHI 10

 「オー」と呼ばれている奥武島。 マージ質土壌が地名の由来になった真喜屋と違い、ほぼ全島が琉球石灰岩で構成されています。

 島には多くの墓地が分布し、真喜屋・稲嶺・仲尾次三ヵの墓の島である。
 (沖縄県の地名:平凡社より)



OUBASHI 11

 こちらは屋我地大橋。

屋我地大橋
 屋我地大橋は、羽地内海の屋我地島と奥武島に架かる橋で、平成22年12月にワルミ大橋が完成するまでは、長年にわたり本島と屋我地島を結ぶ唯一の橋であった。現在の橋は3代目で、2代目の旧橋は幅員が狭く、歩道もなく、老朽化も著しかったため、早急な架け替えが切望されていた。
 本島から屋我地島、古宇利島へと繋がる屋我地大橋は、歩行者の安全確保、交通需要への対応はもとより、屋我地島、古宇利島における観光資源の開発、教育、医療、福祉の向上など島の振興に大きく寄与している。
(沖縄県ホームページより)

 初代・屋我地大橋が完成したのは1950年のことで、そのときの橋長は146mでした。 初代は1960年にチリ津波で流失、二代目は橋長300mのラーメン橋となって1963年に完成しました。 現在の橋は三代目で、1993年に開通しました。

 ラーメン橋の「ラーメン」はドイツ語で「骨組み」の意味。 拉麺ではありません。


OUBASHI 12

OUBASHI 13

OUBASHI 14

 こちらは橋の手前にある駐車場(地図)にある「屋我地大橋の歴史」の石碑。

 書かれている内容が先に出した内容と重複するので省略しております。



OUBASHI 15

OUBASHI 16

 同じ駐車場内にある「のがれの島」の碑。 屋我地島にある国立療養所愛楽園の創設に尽力した青木恵哉師の石碑があります。

魚ならば海にもぐりても生きん
鳥ならば空に舞い上りてものがれん
五尺の体、住む所なしと
青木師外15名がのがれのがれて露命をつないだ無人島ジヤルマ!しかし水のない島は人間の永住に適さなかった 屋我地大堂原は水ゆたか
神の選び賜うた地上の天国であった
(石碑より)

青木恵哉
 ハンセン病患者にして、キリスト教伝道者。 徳島県阿南市出身の青木恵哉(あおき・けいさい、1893~1969年)は、国立療養所沖縄愛楽園(沖縄県名護市)の礎を築いた人物である。 愛楽園の一角には頌徳碑や銅像などのモニュメントが立ち、「沖縄救癩(きゅうらい)の先駆者」の遺徳をしのばせる。
 16歳でハンセン病を発症し、病気平癒を祈って3度の四国遍路をするも回復はならず、大島療養所(現・大島青松園、香川県)に入所。ここでキリスト教に入信する。さらに転院した熊本回春病院で、イギリス聖公会(英国国教会、アングリカン・チャーチ)のハンナ・リデル師から、沖縄での布教とハンセン病患者の救済を託される。 
 34歳で沖縄に渡った青木は信徒とともに安住の地を求めるが、地域住民の偏見や無理解から、襲撃や焼き打ちなどの激しい迫害に遭う。苦難の末、1935年に沖縄北部の屋我地島大堂原の地に、信徒ら15人で上陸し、ここを生活の場とする。ガマ(自然壕)の中で風雨を避ける暮らしだった。窮状を見かねた沖縄のキリスト教者らによって「沖縄MTL相談所」が設置され、1938年には「国頭愛楽園」が開設された。
 しかし1944年10月10日の米軍による空襲、いわゆる「10・10空襲」で、療養施設の大半が焼失。米軍の資料に療養所の建物が「バラック」と記載されていたため、米軍が「兵舎」と判断して標的としたともされる。米軍は上陸後にここがハンセン病療養施設だと知って驚き、支援物資などを運び込んだという。

 文章長めですが、すごい人だなぁと思って載せました。

次のバス停留所は…


屋我浜 (YAGAHAMA)
YAGAHAMA



真喜屋

3 件のコメント:

  1. 「真喜屋」もお願いします。

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    1. コメントありがとうございます。
      「真喜屋」は過去に掲載していますが、バス停留所の写真がないのでリンクしておりません。 宜しければ「名護市」のタブで当サイト内を検索してみてください。

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  2. どう致しまして。

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琉大北口 (RYUDAI-KITAGUCHI)

   琉球大学の敷地内にある「琉大北口」のバス停留所です。  こちらは中城村の護佐丸バスの伊集回り線、久場回り線、久場琉大線が停まります。 掲載している情報は公開日時点のものなので、バスなどをご利用される際は関係各所に確認してください。