那覇市西町にある「那覇ショッピング前」のバス停留所です。
こちらは首里牧志線(1番)、識名開南線(2番)、松川新都心線(3番)、識名牧志線(5番)、寒川線(15番)、与根線(45番)が停まります。 ご利用の際は変更等があるのでバス会社に確認してください。
県道43号線・上之蔵大通り沿いにバス停留所(地図)はあります。
追記:2024年7月にバス停留所の名称が「西町」に変更になりました。 当ブログでは旧名のままで変更をしていないので、ご覧の際は予めご了承ください。
上の写真の左側にバス停留所の名称由来の「那覇ショッピングセンター」がありましたが、1975年に建てられたビルは解体されて現在は更地になってしまいました。
那覇ショッピングセンター(ホームページ)
右側に写っているのが在りし日のショッピングセンター。
西の海跡(ニーシヌウミアト)
西村(にしむら)(現那覇市西)の西の海のこと。童謡「アカナー」にも歌われており、那覇の人々に親しまれた海辺であった。
かつて、那覇港先の三重城(ミーグスク)から、潮の崎(スーヌサチ)(現那覇市辻三文珠(さんもんじ)公園一帯)にかけては、U字形に湾入しており、「西の海」と呼ばれた。沿岸部は「下り(サガイ)」と呼ばれ、「牛町下り(ウシマチサガイ)」・「嘉手川下り(カデガーサガイ)」等の小字があった。1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという(『球陽』尚敬王21年条)。
1879年の沖縄県設置(琉球処分)後、本格的に西の海の埋立が行われ、1882年、「湯屋の前(ユーワーヌメー)」と呼ばれる一帯約400坪が埋め立てられ、東本願寺(現真教寺(しんきょうじ))が建立された。1888年には、第百四十七銀行支店長田代静之助(たしろせいのすけ)により、三重城に延びる突堤付近約4,000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町(にししんまち)1 ~ 2丁目となった。
1908年、沖縄県により埋立事業が開始されたが、後に尚順(しょうじゅん)(最後の琉球国王尚泰(しょうたい)の四男)が引き継ぎ、1922年に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、俗にミーガタ(新潟)と呼ばれ、1~2丁目はフルガタ(古潟)と呼ばれた。当初、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年6月に大正劇場が新築された。同劇場では、1932年に玉城盛義(たまぐすくせいぎ)等が「真楽座(しんらくざ)」を結成し、新天地劇場の「珊瑚座(さんござ)」と人気を二分したという。
終戦後、同一帯は、更なる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。
那覇市歴史博物館ホームページより
この道路を真っすぐ行くと那覇港に向かいます。
こちらは真教寺。
こちらは「新天地劇場跡」(地図)。
新天地劇場跡
那覇市上之蔵町(うえのくらちょう)の石門(いしじょう)に建てられた劇場跡。1922年建立で、最初の劇場主は、奄美出身で眼科医の向井文忠(むかいぶんちゅう)氏。
那覇劇場は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建てで「石屋(イシヤー)」とも呼ばれ、瓦葺(かわらぶ)き屋根が軒を並べる那覇の街ではひときわ目立った建物だった。敷地は約190坪、観客収容人員は約1,500人であったという。
当初は、「那覇劇場(なはげきじょう)」という名で、新垣松含(あらかきしょうがん)・多嘉良朝成(たからちゅうせい)・平良良勝(たいらりょうしょう)等が結成した「若葉団(わかばだん)」の専用劇場であったが、高台に建設されたこともあり、観客の入りがおもわしくなく、「若葉団」はまもなく解散した。その後は「新天地劇場」という名の常設映画館として運営された。
1934年から1943年まで真境名由康(まじきなゆうこう)・鉢嶺喜次(はちみねきじ)・島袋光裕(しまぶくろこうゆう)等が結成した「珊瑚座(さんござ)」が専用劇場として使用し、「珊瑚座」の名称が定着した。
1944年10月10日の10・10空襲で、劇場内部は被害を受け焼失したが、外部のコンクリート壁面は焼け残った。沖縄戦後もしばらく放置されたが、1953年から始められた一帯の区画整理のため、撤去された。
那覇市歴史博物館ホームページより
上記の写真右側に「平和館」がありました。
「那覇市歴史博物館 提供」
大正8年西本町に開館、活弁陣の林正夫、瀧本楽水、大和洋行、花山夫婦などが人気を博したが、昭和5年開館の旭館とともに昭和7年からはトーキー映画が上映されるようになった。
那覇市歴史博物館ホームページより
1944年の空襲で焼失した平和館は、1950年に国際通りの名称由来の「アーニーパイル国際劇場」と隣接して再建されています。 平和通りの名称は「平和館」が由来です。
新「平和館」は1970年に閉館しました。
こちらは「伊波普猷生家跡地」(地図)。
伊波普猷生家跡地
沖縄学の父として知られる伊波普猷の生家跡地。伊波は、琉球処分を目前にした1876年に、那覇の西村(にしむら)で生まれた。生家は那覇士族魚氏(ぎょうじ)の家系で、素封家として知られていた。
沖縄県立第一中学校在学中の1895年に、英語科廃止問題からストライキ事件が起こった。伊波は、その首謀者の一人として退学処分となった。上京して浪人後、京都の第三高等学校(現京都大学)に入学。1903年には東京帝国大学(現東京大学)に進み、言語学を専攻した。
1906年に卒業して帰郷すると、沖縄に関する画期的な研究論文を次々発表し、沖縄人による沖縄研究の先陣を切った。1910年に沖縄県立沖縄図書館の初代館長となり、資料収集の他、各地で300回余りにおよぶ衛生に関する講演を行うなど、啓蒙運動にも精力的に取り組んだ。
1911年には諸論考をまとめて、沖縄研究の記念碑的著作となる「古琉球(こりゅうきゅう)」を出版した。その後も、真境名安興(まじきなあんこう)、東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)らとともに沖縄学の確立に大きな役割を果たし続けた。
1925年、館長職を辞して上京。生涯をかけた「おもろさうし」の研究に没頭し、多くの成果を遺した。
終戦間もない1947年8月13日、米軍占領下の故郷沖縄の将来を憂いながら東京で病没した。享年72。
伊波は、近代沖縄が生んだ第一級の研究者、啓蒙家であった。
那覇市歴史博物館ホームページより
上之蔵 (Uenokura)
那覇港前
「上之蔵」のバス停も後でお願いします。
返信削除コメントありがとうございます。
削除上之蔵までサイトを移動できるようにしておりませんでした。すみません。
大丈夫ですよ。ありがとうございます。
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