那覇市上之屋にある、おもろまちメディカルセンターのバス停留所です。
こちらは牧志新都心線(10番)が停まります。 ご利用の際は変更等があるのでバス会社に確認してください。
新都心にある「おもろまちメディカルセンター」の敷地内にバス停留所(地図)はあります。
医療法人 祥杏会 おもろまちメディカルセンター
当院は、平成18年4月に旧泉崎病院より那覇市の中核、おもろまち近隣に移転した医療機関です。 各外来診療をはじめ健康管理センター、内視鏡センター、血液浄化センターを有し、地域の皆様に寄り添った真心のある医療提供を目指しております。
沖縄県りっか沖縄より
「祥杏」の由来を調べられなかったのですが、良い医者のことを中国の故事から「杏林」というので、そこからきていると思われます(教養が無くてすみません)。 この故事の由来となった名医の董奉(とうほう)は、杏仁豆腐を発明した人だそうです。
この先に行くと泊小学校に向かう。
病院の裏にある美容専門学校の前にある「タカマサイ公園(地図)」。
タカマサイはここの字名「高真佐利屋原」から来ています。
「与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
1390年、宮古の人でははじめて首里の中山に服属した人で、それによって宮古の首長に任じられた。しかし言葉(方言)が通じないので、部下20人を選び3年かけて学ばせた。国王への貢物は彼らを通して納められ、宮古に帰る時には王城内で送別の宴を賜ったといわれる。碑には「その後屋敷跡は人手に渡ったので、与那覇の子孫がこの地を買い求めて記念碑を建て、礼拝の場所にするため白川氏正党14世恵政(けいせい)が上国の時、1767年、この碑を建てた」と記されている。
この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。 ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。
案内板より
「あやぐ」は宮古の歌謡のことで、語源の「綾言」のことから聖なることばを意味するようです。 豊見親(トゥユミヤ)は古代宮古島の首長の尊称。(沖縄大百科事典より)
与那覇勢頭豊見親が白川浜から出発したことにちなみ、真佐久の一門は、後に白川氏を名乗るようになった。 〈略〉 白川姓の支族に上地氏があり、俳優の上地雄輔はその末裔である。
(Wikipediaより抜粋)
宮古島への遥拝所も完備してます。
次のバス停留所は…
合同庁舎前
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