豊見城市饒波のバス停留所です。
こちらは豊見城市内一周線(105番)が停まります。 ご利用の際は変更等があるのでバス会社に確認してください。
豊見城市の市道32号線沿いにバス停留所(地図)はあります。
饒波
饒波は方言で「ヌーファ」あるいは「ヌファ」と呼称され、饒波原、東原、川田原、山見原、溝原、大嶺原、川崎原、後原、与那仁原の九つの小字からなっている。
時期は明らかではないが、饒波は長嶺グスク付近にあったとされる長嶺村の住人が分散移動して集落を形成したといわれ、十七世紀中頃の成立と考えられる「絵図郷村帳」には「によは村」と見える。 近世期から近代初期を通じて豊見城間切のうちの一村で饒波村と称し、1903年の土地整理後の大字制導入により隣接する高安村と合併して高入端(たかのは)村となった。 1908年には町村制施行によって豊見城村字高入端と改められ、これが1951年まで続いたが、その後はもとの字名である字饒波に復した。
豊見城市史 第二巻民俗編より抜粋
カンジャシチー
かつてはこの場所のアカギの根元に霊石があり、それを火ヌ神として拝んでいた。 また付近にヌバルガーという井戸があることから、「琉球国由来記」に記載のある野原ノ殿にあたるのではないかとされる。
カンジャシチーにはトタン葺きの祠があり、これは上里家のものである。 「豊見城村史」に「野原の殿は元、上里という家が守護していたといわれているから上里の殿と解されているが、上里家は廃家になり、屋号仲伊保がその霊位をお持ちしている。」とある。 また一説には、上里が字有地であるカンジャシチーの土地に了解を得ずに家を建てたが、その後上里は廃家になったため、最も血筋の近い〈仲伊保〉が同家の祭祀を引き継いだ。 しかしその後また祀る人がいなくなり、〈仲伊保〉から再びカンジャシチーへ移され、祠が建てられたという。
豊見城市史 第二巻民俗編より
カンザシチともいわれています。
こちらは饒波公民館。
次のバス停留所は…
(画像をクリックすると移動します)
饒波シーサー前 (Noha Seasir-mae)
長嶺小学校前 (NAGAMINE SYOUGAKKOU MAE)
「沖縄タイムス前」も将来的に追加してください。
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