うるま市勝連平敷屋にある「きむたかこどもセンター」です。
うるま市の公共施設間連絡バスが停まります。 変更等があるのでご利用の際は、バス会社に確認してください。
平敷屋にある児童館(地図)です。
大型施設かと思っていましたが、こじんまりとした可愛い建物でした。
近くにある平敷屋タキノー(地図)です。
平敷屋タキノー
この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高70m余りの小さな丘です。 1727年脇地頭(領主)としてこの地に配された平敷屋朝敏は、水不足になやむ農民のために、ため池をほりました。 その時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられています。
近年住宅化が進み、タキノーや池も整備・改修がなされ昔と趣を異にしたが、勝連半島を取り巻く太平洋のみはらせるすばらしい景勝地です。 1986年には、和文学者でもあった朝敏の琉歌の記念碑も建立されました。
また、近くには御嶽やヒータチムイ(のろし台)や平敷屋古島遺跡もあり、昔の集落を研究するにも重要な史跡です。
勝連町教育委員会
落書事件で蔡温に安謝港で処刑された和文学者・平敷屋朝の築いた丘です。
平敷屋朝敏
朝敏は和文学者として4編(「若草物語」「苔の下」「万才」「貧家記」)の短い擬古文物語を書いている。 また組踊のなかで唯一の恋愛物「手水の縁」の作者でもある。 その他、和歌や琉歌も伝えられており、文学者の名にふさわしい、数少ない一人である。 沖縄三十六歌仙の一人。
沖縄大百科事典 沖縄タイムス社より
眼下に広がる太平洋とホワイトビーチ。
平敷屋製糖工場跡
平敷屋製糖工場は1940年、勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して新設された共同製糖工場です。
昭和初期の沖縄では、甘藷圧搾に畜力を用いる伝統的な在来製糖場と、動力機を備えた共同所有の共同製糖場(改良製糖場ともいう)が共存していました。
1928年以降、共同製糖場を新設する組合に対し補助金が交付されるようになり、設立が促進されました。 そうした背景のもと、蒸気を原動力とし、共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が設立されました。 ~略~
1944年10月におきた十・十空襲以降、工場は操業できなくなり、その後、米軍の攻撃により破壊されましたが、煙突1基と貯水槽だけが残りました。 ~略~
うるま市教育委員会
高さ約16mを見上げる。 沖縄線の激しさを物語る弾痕が残っている模様。
戦前の煙突は八重瀬町宜次にも残っています。
貯水槽。
ノロガー。
次のバス停留所は…
(画像をクリックすると移動します)
平安名公民館前
平敷屋港旅客待合所 (HESHIKIYAKOU RYOKYAKU-MACHIAIJYO)
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どう致しまして。
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