八重瀬町具志頭にある「具志頭ドライブイン前」です。
こちらは、百名線(50番)、西崎・向陽高校線(81番)、玉泉洞線(82番)が停まります。 変更等があるのでご利用の際はバス会社に確認してください。
県道331号線の具志頭交差点を港川方面に向かったところにバス停留所(地図)はあります。
中央の木が生い茂っている所が「ミドリグスク」。
こちらは伊舎堂墓です。
南風原按司守忠と花城親方守知の墓
首里士族 阿姓元祖山南王汪応祖の次男 南風原按司守忠 唐名阿衡基は 南山王他魯毎王の弟である 1428年 尚巴志に南山が亡ぼされたとき 城から脱出して具志頭間切に逃げて 同間切の安里大親の下に隠れていた ところが尚巴志に知られ守忠は久志間切丁間村に数年間 逃げ延びて隠れ住んでいたが 再び安里大親の下に帰りその娘を妻として大親の嗣子となり一男を授かる これが守知 唐名阿擢華である
やがて父守忠は具志頭間切で生涯を終えたので白水川の洞窟墓に葬られた 後に那宇島に墓を築き そこに埋葬した その墓を那宇島墓という
守知は成長して具志頭間切同村の屋冨祖大親の娘 真嘉戸樽を妻にし長女真嘉戸を産んだ その真嘉戸が知念間切同村の謝氏 知名親雲上成良の妻となって女子を産んだ この子が後の第二尚氏三代目尚真王の夫人となり 四代目尚清王を産んだ思戸金按司加那志である
守知は尚真王の養父を命じられ首里に住むようになり本家を再興した 具志頭間切の花城村を領地として授けられた以後花城親方となる
時は過ぎ花城親方が臨終の間際に遺体は父母の墓に葬るよう尚真王に願った 王様は万一死んだときは公費を以って葬式を行うことを約束した 数日後守知は亡くなり 具志頭間切那宇島に在る父守忠の墓に葬られた その後 明治時代に座嘉比門中の祖先の墓地である現在の志保士原に移されたこの伊舎堂墓が 南風原按司守忠とその長男花城親方守知の墓である
(案内板より)
まさか霊園内にあるとは思っていなかったので、関係のない場所を探し回って苦労しました。
阿擢辛が没すると尚真王は養父の願いをかなえるため、暴風のため壊された識名橋を一夜二昼で修復させ、阿擢辛の遺体を具志頭間切に運んだという。
(平凡社「沖縄県の地名」より)
識名橋はこのエピソードが元となって、「一日橋」と呼ばれるようになったようです。
上の写真はバス停留所の名称にもなっている具志頭ドライブインですが、残念ながら閉店して現在は更地になっております。
会社の同僚が具志頭ドライブインの事を知っていたので話を聞くと、スタイルの良い女性店員がいたのでよく通ったと語っていました。 会社の同僚たちは、どうでも良い昔話しか覚えていない。
ちなみに沖縄初のドライブインはインターナショナル・デイリーズ琉球(今の沖縄ブルーシール販売株式会社)が営業していたビッグ・ディップ。 今のブルーシール牧港本店のところにあったようです。
こちらは、ゆったちじょうのお嶽(地図)。
ゆったちじょうのお嶽
ゆったちじょうのお嶽は、先史時代から古琉球時代の初期にかけて、このお嶽の周辺に存在した、「よりたち」と称する村落に属するお嶽で、よりたちの人々の祟信する祖霊神を祀ったお嶽である。
具志頭村内に現存するお嶽の中では、最も古いものであり、沖縄におけるお嶽の原型をとどめている、祀られている神名は不明である。
ゆったちじょうのお嶽の名が、琉球国由来記の具志頭間切のお嶽の条項に見えないのはなぜか。
琉球国由来記は、各間切からの報告に基づき首里王府が編集したものである。 お嶽については、間切では、村毎にその村に所属するお嶽について報告した。
ところが、琉球国由来記が編集された時には、よりたちは、具志頭村に移動合併しなくなっていた。 そこで、具志頭間切では、ゆったちじょうのお嶽については、報告しなかったと思われる。
八重瀬町教育委員会
神名が不明なのは、よりたちさんの報告ミスってことで良いのかな?
次のバス停留所は…
向陽高校前 (KOYO KOKO MAE)
次も更新してください。
返信削除