那覇市泊二丁目にある「泊高橋」のバス停留所です。
こちらは県道29号線沿いですが、国道58号線沿いにも「泊高橋」のバス停留所があるのでお間違いなきように。
国道58号線の泊交差点から崇元寺向けに曲がったところにバス停留所(地図)はあります。
この先を行くと崇元寺。
こちらは泊橋。
右の小さい橋は泊橋。 左の大きい橋が泊高橋になります。
中央の建物は泊埠頭旅客ターミナルビル「とまりん」。
とまりんと左側のシートに覆われたビルの前に、別の「泊高橋」のバス停留所があります。
奥に見える大きな橋は泊大橋。
泊高橋
国労58号線の安里川河口に架かる橋。 最初の架橋年代は不明だが、おそらく古琉球期から泊村の前を西流する安里川河口に架けられていた橋で、泊村と対岸の泊前浜(泊兼久)を結んでいた。 ~略~
泊と那覇を結ぶ南北の交通の便にも供するため木橋が架けられていたと思われるが、修理が度重なるため1699年8月石橋への改修工事が始まり、翌年3月に竣工した。 ~略~
橋は中央のアーチが高く、路面は勾配が急で、三段の階段があったという。 このため橋の名は、橋の下を船が往来できるように、橋脚を高くしていたことにより名付けられたと思われる。
平凡社「沖縄県の地名」より
その傍にある泊竜宮神。
竜宮神の隣にある歌碑。
高橋節泊高橋に なんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ明きて とめてさすら(泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった。 夜が明けて探し出して差すことができようか…)橋の上で恋をささやいていたカップルが銀のかんざしを川に落としてしまい、それを恋人が慰めていることを詠んだのではないかといわれている。しかし、別の説では王府を批判したとして蔡温に処刑された平敷屋朝敏の妻が、濡れ衣を着せられ憤死した夫を断腸の思いで詠んだものだと伝えられている。他の一説では、久米村の「秀れ山田」といわれた親方が、蔡温の策略によって島流しの刑となり、八重山に向かう際に詠んだものともいわれている。いずれの説も、男がかんざしを差すことはないので、転じて当時の男の宝物であった身分、位、そして妻子などを「なんじゃじふぁ(銀のかんざし)」に託し、それらをすべて奪われて行くことになってしまったが、きっと帰ってきて恨みを晴らしてやるという怨念のこもった歌なのである。(垣花武信・東江八十郎著「沖縄文学碑めぐり」より意訳)
泊高橋が架かる安里川を上流に向かうと「蔡温橋」がありますが、わざとその河口に石碑を造ったのかと思ってしまう(子孫?)。
次のバス停留所は…
中之橋
上之屋
次も更新してください。
返信削除コメントありがとうございます。
削除すみません、更新頻度を上げるよう頑張ります。