南城市前川にある大道(地図)です。
こちらは南城市のコミュニティバスであるNバスが停まります。
こちらは糸数から玉泉洞に抜ける途中にあります。
NバスのD2玉城東回り線(向陽高校経由)、F1玉城西回り線、F2玉城西回り線(玉城幼稚園経由)、G向陽高校線(大里経由)が停車します。
バス停留所から少し歩いた場所には、木田大時(むくたうふとぅち)の屋敷跡(地図)があります。
琉球王国時代、尚真王に仕えていた玉城筑登之(たまぐすく ちくどぅん)は、幼いころは仁王と呼ばれていました。 長じて当時の琉球でも天文・暦学の第一人者として認められ、王府に仕えるようになりました。近くにあった案内看板より
ある年、易学にも詳しかった彼は、重い病気になった王子の悪い霊を見事に払い、またたく間に治して王様を大変喜ばせました。 その際にいただいた称号が「大時(うふとぅち)」です。 「時」とは易をする男性のことで「大時」はそれを敬ったものです。
しかし、それを妬ましく思う人たちが彼を失脚させようと、「ネズミ事件」を仕組みます。 大時は王様の前で神霊力を試されることになり、箱の中にいるネズミの数を当てることになりました。 箱には一匹入れられたのですが、大時は「中に五匹います」と答えて王様をがっかりさせ、家来たちはすぐに彼を安謝の処刑場に引き立てていきました。
しかし、念のために箱の中を確かめると、一匹のネズミが赤ちゃんを産んで五匹に増えているではありませんか(数については諸説あり)。 彼は正しい答えを言ったのです。 王様は急いで安謝の処刑場に連絡させましたが、残念ながら間に合いませんでした。
王様は自分の行為を深く反省し、大時を歴代国王の眠る玉陵(たまうどぅん)に祀ることにしたと伝えられています。 今では、本家の玉城字前川の内間家をはじめとする多くの子孫が玉陵にお参りされています。
玉陵にある玉陵碑には碑文には、尚真王の長男である尚維衡と次男の尚朝栄を除く6人と尚真王、尚円王妃、尚円長女を加えた9人とその子孫は永久にこの陵墓に葬られるべきである、もしこのことに背く者があったら、「天に仰ぎ地に伏してたたるべし」と書いてあります。 那覇市観光資源データベースより
第二尚氏三代目の尚真王がソッコーで言いつけを破ってます。
あと彼は玉城間切玉城村生まれで予知能力があり腕を磨くため、前川村大道の小波津親雲上から天文や風水を学んだようです。 沖縄拝所巡り300 著・比嘉朝進より
木田大時の屋敷跡の上辺りです。
ナガガー(大道屋取の産井(うふどうやーどぅいのうぶがー))。
屋取は首里王族が下野して開いた集落のことなので、木田大時も第一尚氏に関係がある人なのかもしれません。
井泉口が長方形をしていることが名称の由来。 「南城市の御嶽」より
次のバス停は…(画像をクリックすると移動します)
前川ムラヤー前 (MAEKAWA MURAYA MAE)
0 件のコメント:
コメントを投稿