国頭村楚洲にある、楚洲公民館前(地図)です。
こちらは、国頭村営バスが停まります。 ご利用の際は変更等があるので、バス会社に確認してください。
バス停留所は楚洲共同店の前にあります。 公民館の前ではありません。
掲示板に隠れているので、見つからずにかなり探し回りました。
国頭村営バス (国頭村ホームページ)
共同店の上から撮影。
楚洲の共同売店は1914年に創立、戦後は1951年に再建しています。(角川日本地名大辞典より)
上記の写真からは8年後の2024年に撮影した写真を載せています(加筆してます)。 看板と階段の色褪せを写真で比べると一目瞭然だと思います。
1736年に三司官・蔡温の施策によって楚洲川右岸から左岸へ移住させられて村が成立しました。 35年後の1771年に明和の大津波の被害があり、旧地のスイ兼久原(かねくばる)に帰住させられました。 しかし、1801年に風水が悪いと理由から、再び強制的に楚洲川左岸に戻されております。 (角川日本地名大辞典より)
スイ兼久原を「沖縄国頭の村落【上】」では、楚江(ぞえ)兼久原やスイガネクという名称で記載があり、場所は国頭村奥の東側あたり(地図)になります。 風水が原因なのか判断できませんが、今も当地に住居が建っている様子はありません。
今なら県道70号線をクルマで移動すれば、7km強の距離を10分ぐらいでスイ兼久原まで行けます。 当時は整備された道路もなく舟で移動していたことを考えれば、「風水が悪いってなんだよフリムン」と住民が怒って引っ越す姿を想像するに難しくないです。
カミアサギは軒の低い茅葺屋根の神さまを招へいする建造物のこと。
楚洲小学校の発祥の地の碑。
もともと別々な場所にあったものを学校建設のために一旦は山の上に移動しましたが、戦後に現在地にまとめられて祀られています。(沖縄国頭の村落【上】 津波高志 他・著より)
奥 (OKU)
「沖縄県公文書館所蔵」
「沖縄県公文書館所蔵」」
上の二枚の写真は1963年ごろに架けられた、旧・楚洲橋の建築中の写真。 今の橋は1987年に建て替えられたようです。
次のバス停は…
(画像をクリックすると移動します)
伊部畜産基地入口前 (IBU TIKUSANKICHI IRIGUCHI MAE)
伊江 (IE)
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