那覇市識名にある、上間(地図)のバス停留所です。
ここは、識名開南線(2番)、松川新都心線(3番)、新川おもろまち線(4番)が停車します。
県道222号線の識名トンネルの手前から右折して上っていくとあります。
昔の呼び方は「ウィーマ」。 本部間切上間村(現本部町具志堅に統合された模様)の上間大主との関連が由来との事。
右に行くと光明寺。左に行くと識名トンネルの傍に行きます。
目の前の開けているところにマンションが在りましたが、トンネルを作る際に立ち退きになったみたいです。
この写真の中央に、この場所に昔あった真和志間切(まぎり)の説明書きがあります。
説明書きより
琉球王国時代から1907年(明治40)にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所(役所)跡。
南風原・西原間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当初那覇なども含む広大な間切であったが、那覇・久米村の独立、小禄間切の分離設置により、王国時代は天久・識名・国場など12ヵ村をもって構成された。
間切番所は、上間村に置かれ、地頭代以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。
1879年(明治12)の沖縄県設置後、1899年(明治32)の沖縄県間切島吏(しまり)規定により番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年(明治41)の沖縄県及び島嶼(とうしょ)町村制により、間切は町村となり、真和志間切は真和志村となった。
真和志間切番所は、その後も間切役場。村役場庁舎として使用されていたが、1926年(大正15)国場へ移転(現真和志支所敷地)、1957年(昭和32)那覇市との合併で那覇市真和志支所庁舎となった。
上間郵便局の方を奥に行くと溜め池と樋川があります。
少し曖昧ですが、ここの近くのお店で100円の釣りセットが売っていた記憶があります。 勿論、当時も池には入ってはいけないと看板が有りましたが…。
この樋川の後ろに駐車場を挟んで上間公民館があります。
道をさらに奥に行くと上間中央公園があります。 僕は幼少期、ここを馬場公園と呼んでいた記憶があります。
いつの間にかに石碑が建っていました。
歌の中に「上間バンタ」とあるように、公園の裏手は崖になっています。
ちなみに「バンタ」は崖の意味です。
上間中央公園から東に進んでいくと石獅子がありました。
石獅子 カンクウカンクウ
この石獅子は上間村の古くからの伝承で、「カンクウカンクウ」とよばれている。 名称のいわれ、製作者、設置年代は不明。 上間村には現在木彫りの獅子一体と石彫りの三体が村の守護神として祀られている。 石彫りの獅子は元々は五体あったが、去った太平洋戦争で二体は消失した。
この獅子は南山八重瀬グシクへの返し(ケーシ)といわれている。 村の南側のムンヌキムン(魔除け)、フーチゲーシ(悪風返し)、災厄を払う村の守り神である。
琉球の三山紛争時代、上間は南山勢との戦に幾度も参戦した。 石獅子は敵方からの災いを払うために据えられたもので、すべて南山勢を睨んでいる。 上間自治会
近くの説明書きより
睨んでいる方向。
次のバス停は…(画像をクリックすると移動します)
光明寺前 (KOUMYOUJI MAE)
上間入口(UEMA IRGUCHI)
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